2015年03月11日

山猫9郎の受験戦記

山猫で〜す。
今日は「山猫9郎の受験戦記」と題して33年ほど前の受験記を書きたいと思います。

告白1
1年を九州の予備校ですごした後私は初めて京に上り、同志社大学の経済学部を受験した。
立派なホテル(?)に泊まってかなり緊張したが試験場たるキャンパスに入るとその赤レンガ造りの校舎に心癒される思いでリラックスできた。
記憶によれば数学・英語・国語の3科目であったが正直満点かと思って拍子抜けした。
合格発表の日はこれで行くところができたと心底安心した。

告白2
ついに花の東京に赴き、上智大学の経済学部を受験した。
しかし、試験官があまりに美人で
「東京の女の人はきれいだなあ〜」
と耳まで赤くなるほどのぼせてしまい1時限目の数学がからきしできなかった。
あろうことかわたしは休み時間にトイレで処理してしまった。
でもその後頭が冴えわたり合格した。

ちなみに私の好きな言葉
1.英雄色を好む
2.下半身に人格はない
3.英雄無用武之地

告白3
私は慶応大学の経済学部を受験した。
しかし東京の電車の乗り方がわからず急行に乗ればよいところを普通にのってしまい、やっとの思いで試験場について着席したとたん数学の問題が配られた。
焦ってしまって結局4割ほどしかできなかったと思う。
英語でなんとか挽回したが、小論文の試験はほとんどやけくそであろうことか福沢諭吉の「脱亜入欧」は間違っていると書いてしまった。
合格発表の日おそるおそる補欠の番号から見ていった。自分の番号がなく帰りたくなったが、続けて見るとなぜかばっちり補欠でなく合格していた。
奨学金の申請をすると全額免除までいただいた。
お金がなく寮に入ることを考え訪ねてみると先輩がみな麻雀ばかりしているという話と学生はお金持ちばかりだと聞いて断念し、4番目に受けた一橋大学の社会学部に行くことにした。

入学してみる教授が何をしゃべっているのかほとんどわからず、自分はビリで受かったのではないかと暗澹たる思いだった。

後年塾講師をしているときに時々生徒から
「先生、どこの大学を出たの?」
と訊かれることがあったが、
1.社会学部出身であることがばれるとなぜ英語を教えているのかと突っ込まれるのが嫌だったこと。
2.ほとんど信用されなかったこと。
という二つの理由で年を取ってからは無言を決め込んだ。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 受験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月02日

教育の自在化その10

山猫で〜す。

「教育の自在化その10」

ここまでこのシリーズを読んでくださった方は思うかもしれない。

「う〜ん、こんなに自由化したら結局安きについて今よりもっと学力が落ちるんじゃないか?」

まあ、わたしが人様の学力うんぬんできませんが、はは、あくまで一般的な傾向として児童生徒の学力が伸び悩んでいると聞き及びます。

でも、やはり、昼学校で勉強してさらに夜塾に行くのは何かおかしいんじゃないかと思うわけです。

「ええ?だから勉強量が増えて日本の生徒児童は優秀なんだよ」

という反論が聞こえそうです。

それでこれは一度「受験生とモラルハザード」という記事で書いたんですが、今学習塾の面倒見が良すぎてかえって「自分で勉強する」機会あるいは時間が少なすぎるんじゃないかと思うわけです。

これは山猫も大きなことを言えず、様々な資格試験を受けるためにTACやLECの通信教育のお世話になり、「これだけ勉強すれば合格するんです」と力強く言っていただけるといらない不安や焦りから解放され随分落ち着いて勉強できるんですよね。

でもやはりそれで失うこともあり、自分で創意工夫をしながら勉強するという本来の「楽しみ」だって減るわけです。

実際統計によれば日本の児童生徒の「家庭学習」の「時間」は諸外国に比べてかなり少ないようです。
それを夜の塾で補っているというべきか、あるいは逆に夜の塾がその時間を削っているというべきか。
また、削っているのはその「時間」ばかりでなくそもそもの「やる気」、自分で勉強するという「姿勢」そのものかもしれません。
ほんとうに勉強は「やる」ものでなく「やらされる」ものになっちゃってますからね。

昔の方が偉いのは勉強は教科書や参考書で自分で勉強するのが普通だったという点です。
それも今よりずっと難しい文章のやつを必死でくらいついてそれこそ行間を自分で補いながら勉強していたわけです。

そのような方々が今ノーベル賞を取っているんですよね。

ここでそれこそ自分の成功を披歴できれば幸いですが、それができないので、(笑)、またしても「最後の相場師」是川銀蔵氏の話ですけれど、氏は丁稚奉公時代から夜簿記をひとりで勉強した。のち大陸に渡ってなんとか日本軍とつながりを持ちたいと思っているときに、たまたま軍の主計局の将校たちが慣れない手つきでそろばんをはじきながら帳簿をつける姿を垣間見る。すかさず手助けを申し出て将校たちが何日もかかってやっていた仕事を少年銀蔵は1日で済ましてしまう、信頼を勝ち取り、それが成功への第一歩となったそうです。

のちに運悪く会社を倒産させてしまったとき、2年(?)ほど図書館に通って勉強する。そのときの勉強で独学で相場の理論を身に着け、以後相場で百発百中。

とにかくその自伝を読むと何をするにしても自分で判断する。ひとの意見は決してきかない。

何事かを成し遂げるひとは違うなと思うわけです。

話がやや飛躍した感がありますが、昼間学校で勉強したら、夜は「自分」で勉強するのがかえって学力を高める可能性だってあるじゃありませんか。

そして自分で勉強する習慣が身についたらそれこそそのひとの一生の「宝」あるいはほんとうの「教育=資本」かもしれません。

中年の主張!

NHK杯はおれのもの!!

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月30日

教育の自在化その9

山猫で〜す。

「教育の自在化その9」

「あんたさあ、学歴学歴ってえらいこだわるねぇ?」

そうなんです。
ひとは言うほど学歴なんかにはこだわっていません。
別に誰も学歴が服着て歩いているわけじゃありません。
そんなこといちいち気にしてたら生きていけません。はい。

でもわたしがこんなこと思うのは社会学者小室直樹氏の説を読んだからです。

氏は学問の価値が「未来の予言」にあることを説き、そのとおり冷戦時代のソビエト連邦の崩壊を予言し脚光を浴びました。
だれも冷戦が終わるなんて信じられなかった時代にです。

そして氏は社会学者としてもう一つ重要な予言をしました。
高度成長時代からその後の時代にかけて受験競争が過熱し、<受験戦争>と呼ばれた時代です。
最後のワラの一掴み、ラストストローは「共通一次試験」の導入です。
のちの「センター試験」です。

「これからは子が親を親が子を殺す時代が来る」

ほんとうにその通りになってしまいました。

ここら辺のことは正直自分はよく理解していないのですが、社会の<連帯感>が失われると<犯罪>が増えるという社会的事実があるのですね。

受験のただなかにある生徒が<偏差値>という尺度で輪切りにされていきます。
共通一次試験の導入はそれをさらに点数化してしまったのです。

おれは800点で筑波に入ったとか。
おれは900点とって東大の文二に入ったとか。
わたしなんか920で理三よとか。

この時代、ある大学の学生が合コンの申し込みに女子大の寮に電話を掛けると
「どこの大学?ああ、それなら偏差値が合わない」
と断られることがあったとか。

こんな風潮に社会の連帯感なんて維持できるでしょうか。

試験の点数という尺度でひとが輪切りにされるわけです。
そのための受験競争はさらに過熱していった。

それを<表面的>な現象であると思うにしても、現実に<就職>に際して学歴が問われたわけです。

某A新聞は「学歴社会」を大いに批判していましたが、なんのことはない、A新聞の採用試験を受けるには「大卒」が条件になっていました。
他のマスコミも同様でしたが、今ではみんな知っている。
TV局もA新聞も<コネ>がなかったら入れません。
それなら学歴の方がよっぽど公正だと批判した人もいましたね。

昨今の日本のナショナリズムを批判する人は多いでしょう。
右翼だ。
軍国主義だ。
はては、
病気だ。
と非難する知識人も多いですけれど、その根底に社会の連帯感を取り戻したいという渇望にも似たものがあるかもしれません。

連帯感が失われた社会では規範も失われていく。
犯罪も増えるのです。
それも猟奇的な。
骨肉相食む犯罪も。

もちろん、戦時中のような「一億火の玉」なんてまっぴらごめんですが。

<競争>そのものは必ずしも悪いことではありませんよね。
人々のエネルギーの源です。

でも誰でも同じ競争をするなら自分の好きなことや得意なことあるいはやりがいの感じられることで競争したくありませんか。
なんか子供っぽいこと言ってますかね?

競争そのものは悪いことではない。
でもその競争が激しすぎると病む人が増え、逆にその競争がなさ過ぎても病む人が増えるそうです。

数か月前でしょうか。
テレビCMの「リクルートポイント」の広告が面白かったですね。
前半、<人生>を皆が一斉に走り出すマラソンレースにたとえ、妙に納得しかかったところで意表をついてランナーが次々思い思いの方向に走り出すのですからね。

「いろいろな道がある」

それがいいですよね。

今日もほとんど反響もなく、虚空に叫んでみました。(笑)

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月29日

教育の自在化その8

山猫で〜す。

本日も蛮勇を奮って投稿したいと思います。

「教育の自在化その8」

ここまでこのシリーズを読んでくださった方は疑問に思うに違いない。

「あんた、<教育>を語るのに<お金>の話ばっかりだねぇ」

本日はここんところについて書きたいと思います。

そうなんです。
教育と言えば<道徳>や<倫理>や<規範>を教えるのが第一義と目されるところがあると思いますし、現実その通りでしょう。

でも、日本の歴史を振り返れば中世の昔より強固な<イエ>制度があったと思います。
イエとはもちろん<家>、家族制度ですね。

そのイエとは何か?
それはまず「経営体」でした。
そして「親子関係」がその基盤であり、そのイエが連綿と続いていくことが第一義でした。
この場合、<親>とは必ずしも<血縁関係>にあるものではなく、<子>に絶対服従の命令を下すと同時に子がその命令に服すれば温情をもって庇護してくれる存在でした。

これは実はつい最近までの企業の<系列関係>にも現れていた関係です。
<親会社>である大企業は<子会社>である下請けに絶対服従の命令を下す。
でもその命令に従えば子会社を温情を持って庇護してくれました。
まあ、物心両面で助けてくれるわけです。

でも現在はどうなんでしょうか。
今回の総選挙の争点である<アベノミクス>下において、親会社である大企業は円高の時は、「輸出が伸びないからどうにか納入価格を下げてくれ」と子会社に圧力をかけていたくせに円安になっても価格を上げてくれない。子会社も原材料の輸入価格が上がって苦しいですから<値上げ>を打診すると即取引中止に追い込まれたりするんですね。

話を元に戻すと「親子関係」やイエ制度は戦前の文学でも大きなテーマでしたよね。

例えば伊藤左千夫の「野菊の墓」
主人公は奉公人の民しゃんが好きだったのに親がその関係をよく思わない。
民しゃんはついにほかの町に追われる。
そして悲しみのあまり死んでしまうんですよね。
ぎゃぁ〜、今思い出しても涙が出そう。

「民しゃんは野菊のような人だね」

かわいそうな野菊、踏みにじられてしまいました。

一般に今の日本にはそのようなイエ制度な少なくなったと思います
結婚相手まで親に決められるなんてまっぴらでしょうからね。

でもそのイエ制度の下では親は子供を教育する際に大義がありました。
家の存続です。
それも経営体としての家の存続です。
家の存続を第一義として子供を指導していた。
それはつまり親と子に<共通の目標>があることを意味した。

戦後はどうだったでしょうか?
イエ制度は封建制の遺物として否定された。
結果親は子供を教育する大義を失います。
親と子の共通の目標も失われる。

親は子供をどう教育すればよいか悩むことになります。
子供をしかる際、これは「子供のため」なのか「それとも自分のエゴ」のためなのかと躊躇しなけばならなくなった。

教育を語るときに教える側の「愛」が問われることになった。
親の迷いは自由放任といいながらその実子供を陰で監視しているような中途半端な家庭教育を生む。
子供は子供でその中途半端さに矛盾を感じ苛立ち反抗する。

家の崩壊で失われたものもあるのですね。
しかし、この厳しい世の中です。
「家族」が「経営体」であることに変わりはありません。
週末にちょっと皆で外食して楽しむにしてもお金が要りますからね。はは。
家で一緒に鍋を囲むにしてもお金がいる。

家族が経営体であるならば親子には共通の目標があります。
そこには家族の連帯があり、絆があるでしょう。

ぶっちゃけ、親だって年取れば子供に楽をさせてほしいわけです。

家族にはまず経営マインドが必要であり、家庭教育にだって経営マインドは必要です。
そしてその家庭を側面から助ける教育機関にも経営マインドは必要なのです。

今、家庭教育は農家や自営業者の方がうまくいっているそうです。
親子ともども家族が何より経営体であることを骨身にしみて知っているからです。

教育に関してなにか抽象的な「愛」を語るより、ぶっちゃけ「金勘定」が必要なのです。

中年の主張!!

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月28日

教育の自在化その7

山猫で〜す。

本日も蛮勇を奮って投稿したいと思います。

「教育の自在化その7」

ここまでこのシリーズを読んでくださった方は次のような疑問をお持ちだと思います。

「う〜ん、ここまで学校を自由化すると特色ある学校は増えるかもしれないが、教える内容に<片寄り>でてくるんじゃないの?」

そうなんです。
でも他ブログで一度書きましたけど、これはいわゆる「個性化教育」にまつわる問題ですね。

わたしが今までに読んだ「個性化教育」に対する批判はおおむね、

「壁があるからそれを乗り越えようとして<個性>が磨かれる」
「つぶされても、つぶされても、それでも出てくるのが本当の<個性>である」
「なにもかも自由にしてそれで<個性>が出てくるようなものではない」

といったものです。

しかし、堺屋太一氏によると、「個性化教育」の本場と目されるアメリカでどのような教育が行われているかというと、そのひとの長所を少しでも伸ばすような教育が施されている。たとえばハイスクールで先生は生徒に対して次のように言うそうです。

「あなたは算数は苦手だが、フットボールは得意だ。算数はもういいからフットボールを頑張りなさい」
「あなたは体育はからきしだめだが、英語が得意だ。体育はもういいから英語をやりなさい」

もし日本で教師がこのようなことを言えば大問題になるかもしれませんね。

日本ではたとえば9科目あるとしてその成績を9角形で表した場合、できるだけそのひとの能力をまるく、ま〜るくまとめようとする。
算数は突出していても国語がからきしだめだと<いびつ>な9角形になりますよね。
だから
「算数はいいけどもう少し国語を頑張りなさい」
とアメリカとはまったく正反対のことを言うわけです。

あれだけ個性的な人の多いアメリカですからその教育の成果はまず間違いない。

でも大きな<リスク>ですよね。
先生に言われた通りフットボールで頑張って成功すればいいですけど、できなかったら算数ができないまま大人になる。それこそ大けがでもして選手生命を絶たれたら計算のまるきしできない人間が苦労するのは間違いない。

でもアメリカは<資本主義>の国です。
<リスク>をとった人間にしか<リターン>はありません。

日本だってもっとリスクを取りたい人がいるはずです。

「おれはもう一日中サッカーをやっていたい!」とか
「わたしは朝から夕までバイオリンを弾いていたい」とか。

まあ、そのとおり一日中やってそれでいいものでもないでしょうが。

学校を自由化して特色ある学校が増えれば今よりもっと積極的にリスクをとる人間がでてくるはずです。

オリンピックでも、それこそ数学五輪でも軒並み<金メダル>の日が来るかもしれません。

「学校の自由化」は消費者である生徒にとっては「教育の自在化」です。

山猫はいつかそんな日が来る日を夢見るオッサンです。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月26日

教育の自在化その6

山猫で〜す。

本日も蛮勇を奮って投稿します。

「教育の自在化その6」

中世ドイツヨーロッパでは学生は「放浪者」のように自分の研究したいことを教えてくれる先生をもとめて町から町を旅したそうです。

なんか漫画「バガボンド」の宮本武蔵みたいですね。

「修業」あるいは「修行」のために「放浪」する放浪者=バガボンドですからね。

う〜ん、男のマロンですねぇ。

うん?
あ、「ロマン」か。。。

「ロマン」といえば「視線を将来に向けた<甘い>感情」。

青春期にある若者にふさわしい感情です。

それでこれはもう今の日本でもある程度現実化している話ですが、学生が自分の研究したいテーマを教えてくれる師を求めて他大学へ出張し在籍中の大学以外の大学でも「単位」が取れるようになっているのですね。

すばらしいですね。
山猫が学生のころでも勉強熱心な学生は先生に断ったうえでいわゆる「モグリ」として他大学の講義を聞いていましたけれど。

今はそれで「単位」が取れるのですからね。

「おれ、ちょっと来学期は九州行ってくる」とか
「いや〜、北海道の山猫教授のゼミは素晴らしいらしい。おれ来学年はちょっと網走に行ってくる」
とか
「いや早稲田に行ってみたがどうもいまいちだった。来期は明治に行ってくる」
とかいう学生の会話が普通になったらなんかそれこそロマンがありませんか?

山猫が夢見るのは「教育のトヨタ看板方式化」
「教育のジャストインタイム化」

「必要な時に必要な分だけ供給する」=ジャストインタイム方式

もちろん現実化するには越えなければならないハードルは多いでしょうが。

しかもそうなればいわゆる「学歴」という名の、その実「学校歴」なんかほとんど無意味になりますね。

ひとりで4,5校の大学から単位を受けている学生も出てくるかもしれない。

18,19の時に一発勝負で入学した大学の「学歴」が一生ついてまわることもなくなるのですから。

それこそ一度高校や大学を卒業し、社会に出てからむくむくと向学心が芽生えた方もフレキシブルかつ柔軟に大学で勉強し、その証としての「単位」が取れれば素晴らしくありませんか。(今でも聴講生や科目履修生の制度はもちろんありますが)

あるいは何かの事情で一度勉学を中断した方も決して悲観する必要はない。
安倍首相張りの「再チャレンジ」ですよね。

要は「学歴」という「名」よりほんとにその方が身に着けた「内容」で評価されたらいいですね。(えらそうにすいません、はは)

師を求めての放浪の「旅」

先日旅行社の方から聞いたんです。
「旅」と「旅行」の違い。
「旅行」にはスケジュールがあるけれど「旅」にはない。

上記のような大学制度ではもちろん「カリキュラム」という名の「スケジュール」は立てにくいでしょう。
でも何に出会うかわからない「旅」のような醍醐味がある。

本来「学問」はそのようなものかもしれませんしね。

今日も自分を思いっきり棚に上げて書いてみました。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月25日

教育の自在化その5

山猫で〜す。

本日5回目の投稿です。
「教育の自在化その5」

国際ジャーナリスト落合信彦氏いわく
「大学の勉強は、卒業してからのストレスを少なくするためにある」

そうですよね。
大学で学んだ「教養」は確かに卒業後の自分のストレスを軽減してくれるかも知れない。

でも、やっぱり実地に役立つことも、もっと教えてもらった方が大いに助かるというものです。

わたし、社会科学の総合大学を卒業しました。
卒業してから同窓生に訊いてみました。

「学生時代勉強して一番役に立ったことは何か?」

みな、
「簿記」
と答えます。
ビジネスの世界で活躍する方々ですからね。

末に構造改革担当大臣にまでなった慶応大学教授の竹中平蔵氏は卒業して銀行に通い始めてから夜資格の専門学校に通って簿記3級を取ったそうです。
それが大いに役立ったとか。
竹中教授は経済学が専門です。
なんか違和感のある話ではありませんか?

聞けば、今時の学生は「Wスクール」が盛んだとか。
昼は大学、夜はLECやTACで資格取得のための勉強をする。

だったら、そもそもなんで大学に通わなければならないんでしょうか?


わたし告白すると「塾」が嫌いでした。
へたくそですけど教えることそのものが嫌いというより、毎年毎年やれどこの高校に何人合格したとか、今年は御三家に何人合格したとか、やっきになるのがなんか嫌でした。
「毎年」ですからね。

なんか学歴にこだわりすぎるのはばかばかしくありませんか?

ルースベネディクトの「菊と刀」には日本人がアメリカ人と比べて「階層意識」が強いことが書かれてあります。

士農工商、華族士族平民の身分制度がなくなった今、学歴がそのような「階層意識」の尺度のようになっている「一面」もあると思います。

それが「世間」かもしれません。

でもばかばかしくありませんか?

日本社会は「資本主義」です。
だからその中で生きていくには「資本主義社会」に適応しなければなりません。
「資本主義社会」に適応するためには資本主義に適合的な「行動規範」をもたなければなりません。
その「行動規範」には「目的合理的行動様式」と「禁欲の精神」が必要です。
(社会学を学んだ人ならみんな知っています)
つまり、まず「目的」を定めたらその目的を達成するために「禁欲」しつつ「合理的」に行動をしなければなりません。
ビジネスマンが「利益」を目的とし、禁欲して「合理的」に行動しなければならないのと同じです。

受験勉強はただその勉強内容を身に着けるという「利点」があるばかりでなく、受験生に「合格」という「目的」のためにいかに自分を律し禁欲しつつ「合理的な」方法を選択して勉強するかという「経験」を積ませます。
つまり、受験勉強は「資本主義」に適合的な「行動様式」を身に着けた人材を育成することになり、多くの企業がその受験勉強に成功した学生を採用したのも無理からぬことです。

また同じ理由で戦後の一時期「体育会」出身者が企業に好まれました。
「勝利」という「目的」のために「禁欲」して練習に耐え、その勝利のために「合理的」に行動することを自らの習い性とした学生だったからだと思います。
でも今の時代、はたして「学歴」がそのような「行動様式」と完全に「シンクロ」するでしょうか。

「禁欲の精神」と「目的合理的」行動様式は大学受験以外にもいくらでも身に着ける機会がありますよね。
そもそもなにをするにもなにかを達成するには必要なことですから。

時は流れ、時代は変わりました。
社会が不安定化し、大企業でさえいつ潰れるかわからない「複雑な」時代に受験競争が加熱するのは「1点でもひとよりよかったらいい」という「単純さ」に逆にすがりたくなる心理も影響しているかもしれません。
ひとは「複雑性を縮減」した「ゲーム」が好きですから。

でもそのコストが大きすぎるのではないでしょうか?

なにかもっと「開放的」な世の中になってほしい気がします。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月24日

教育の自在化その4

山猫で〜す。

本日4回目の投稿。
「教育の自在化その4」

戦後の大政治家、田中角栄は小学校卒で土方をやり、のちに中央工学校を出て建設会社を興し、総理大臣にまでなりました。

戦中戦後を生きた是川銀蔵は小学校を卒業してから丁稚奉公し、自分で簿記を勉強して、末は最後の相場師と呼ばれる大投資家になりました。
是川経済研究所を設立して色々な大学から集まった学生を教え、その学生が書いた論文を読んだ大学教授が「これは自分にはとても書けない」とあまりに優秀なのにびっくりし、是川氏を訪ね大学に招へいしたそうです。

なんか夢のある話ですね。
お二人とも小学校卒。

確かに混乱した時代だったかもしれない。
でも「風通しのいい世の中」だったんじゃないでしょうか。

わたしが思う「教育の自在化」とは教育のジャストインタイム化。
世界に冠たるトヨタの「看板方式」=ジャストインタイム方式。
「教育のトヨタ看板方式化」です。

「あなた、なんでも経済、お金がらみの話だね」

って疑問を持たれる方も多いでしょうか?

でも、6・3・3と12年も勉強して実地に役立たないっておかしくありませんか?

あまりに「無理・無駄・むら」がありませんか?

それでなくても大変な世の中です。

ベートーベンの「運命」さえ聞こえてくる。

「ダダダダ〜ン!」

ベートーベンいわく
「運命を乗り越えるためには、まず運命を受け入れなければならない」

だから、
「現実を乗り越えるためには、まず現実を受け入れなければならない」

日本経済今よりひどかったとき、
亡くなられたご存じ「もしドラ」の種元、経営学者P・F・ドラッカー氏が言っていました。

「日本は必ず復活する。なぜなら日本人には現実を直視する能力があるからだ」

統計的には先行き厳しい数字ばかりではありませんか。

その根元に少子高齢化がある。

ひとつに教育にお金がかかりすぎる。
住宅ローンだけでも苦しいのに「教育ローン」もある。

高い費用で塾にやり、合格して喜んだのも束の間、私立の高額費用に暗然。。。
聞けばかの開成高校に通う生徒にも夜には塾に通う生徒さんがいるとか。

コストが高すぎませんか?
それを減らせばお金が別のことにまわり、家計も楽になり、ほんとうの「ゆとり」ができるかも。

教育のトヨタ看板方式化。
「必要な時に必要な分だけ供給される」

ずいぶん「無理・無駄・ムラ」が省けるはず。

効率が高まり、「生産性」が上がる。
「生産性」が上がれば経済も成長する。
余暇に使えるお金と時間も増える。
結果消費が活発化し、経済はさらに成長する。
立派な「成長戦略」。

親御さんは塾の送り迎えだけでも大変ではありませんか?
お昼の学校のお弁当だけでなく夜の塾のお弁当も用意しなければならないときがある。

おかあさんも大変です。

おかあさんにゆとりができれば、それこそ「女性の力」が活躍の場を得ることになります。
浮いたお金で託児所や保育所をもっと増やせばさらに女性が働きやすくなる。

さまざまな問題の根っこに教育の無理・無駄・ムラがあるような気がします。

自分の体たらくを思いっきり棚に上げて今日も4回も書いてしまいました。
すみません。

次回もこのテーマで書きます。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教育の自在化その3

山猫で〜す。

本日3回目の投稿。
「教育の自在化その3」

このブログを読んでくださっている方なら山猫がどんな「半端者」かご存じのはず。
それでもわたくしにも「一票」はあるのですから、一有権者として、また一日にたばこを2箱費消する一納税者として、As a tax payer, 引き続き綴りたいと思います。

つらつら思うに途方もないことではありませんか?
6・3・3・4の16年、じっと椅子に座って人の話を聞いているなんて。
幼稚園を合わせれば17年。
運悪く浪人すれば18年。
その上晩に塾があるなんて!

小学生が前途を思って授業中に暴れだすのも無理はないかも。

それでですけれど、ほんとに90%以上のひとが高校までいかなくてはならないんでしょうか。
どうしたって勉強が嫌いなひとだっているわけですから。

だいたい人間興味も関心もないことを暗記させられるほど苦痛なことはないんですからね。
堺屋太一さんもそうはっきりおっしゃっていました。

そもそも本人になんの問題意識もないことを100時間聞かされても理解はできません。
逆に「問題意識」が十分にあれば吸収が違いますよね。
今、話されていることが自分の正に知りたいことなんですから。

戦後という時代には「中卒」は「金の卵」と言われました。
貴重な労働力だったんですよね。

先細りになった痛くない注射針を作ることに成功した大田区の町工場の社長、岡野雅行さんも、
「高校生になってからでは手遅れだ。中卒でうちに来てほしい」
と嘆いておられました。
工場での技術を習得するのにはできるだけ若いうちに修業を始めた方がいいらしいです。
実際、もういいかげん社会に出たいと思っている中学生も多いでしょう。
でも「中卒」はなかなか就職できない。
そんな環境からしぶしぶ高校へ行く。
辛くありませんか?

今後日本では労働力人口が足りない。
社会のコンセンサスとしてもっと若いうちに仕事についてもらった方が本人にとっても余程親切じゃありませんか?

そのためにはもっとすぐに役立つことを学校で教えてくれた方がこれまた親切ですね。
中学生のうちからそのような職業訓練をした方が社会全体の「生産性」も上がります。

立派な「成長戦略」ですね。

だから、今のような「画一化」した「全国一律」のカリキュラムなんてむしろ「有害」ですよね。

消費者としての「生徒」はもっと色々な「選択肢」を求めているはずです。

「教育の自在化」

全国にたくさんの「寺子屋」のようなそれぞれの特色ある「学校」ができれば、どんなに「風通しのいい」社会になるでしょうか。

それで社会全体のコストが減るとしたら。
親御さんの負担も減るとしたら。
本人の苦痛も減るとしたら。

そんなことを一納税者として思っとるわけです。

次回もこのテーマで書きたいと思います。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教育の自在化その2

山猫で〜す。

本日2回目の投稿です。
「教育の自在化その2」

私以前塾で小学生に社会科を教えていたときのこと。
階段の踊り場でたばこを吸っていると5年生の女の子と話をする機会がありました。

ふとその子が言うわけです。
「わたしのおにいちゃんね、いい学校いい学校入らなきゃってストレスで頭が白髪で真っ白になったんだよ」
聞けば小学校6年生のときのことらしい。
教えているこちらにしても暗然とするわけです。(直接そのおにいちゃんを教えたわけではありません)

わたし今52歳ですけど、鏡を見て白髪が増えていると落ち込みますけど。

夏休みにも当然塾はある。
受験学年ならずともほとんど半日。
毎日テストがあって宿題もある。

自分の小学生のころを振り返ると夏休みはソフトボールや虫取りで駆け回っていましたけれど。
なんかつい「かわいそうだな」
と思ってしまった。
それで志望校に合格できなければもっとかわいそうですから、こんな考えじゃいけなかったんでしょうけれど。

でも考えてみれば、なんかばかばかしくありませんか?

普段でも学校でみっちり授業を受けたのちにまた塾がある。
中学生なら部活までやってへとへとで塾に来る。

なんでこんな2度手間がいるのでしょう?

これはテレビで上智大学教授の渡部昇一氏が言っていたことですが、
「塾も学校として認めればいい」

という考えもあるらしい。

このブログで縷々自分の体たらくを述べてきた私がいうのもおこがましいと言えばおこがましいですけれど。

渡部氏がある塾の経営者から聞いたらしいのですが、

「みなさん、塾、塾って言いますけどね、塾は学校よりも悪かったら潰れるんですよ」

このネット時代口コミや評判は一瀉千里に伝わります。
もし、塾も学校として認めても評判が悪ければすぐなくなる。

ほんとに塾を学校として認めてもあまり害がないかもしれない。

いや、むしろ学校を自由化すればメリットの方が大きいかもしれない。

塾みたいな小さな学校がたくさん増えれば、利用者から見て選択の幅が相当に広がる。
それこそ江戸時代の寺子屋なみに増えれば、様々なニーズにこたえられる。

それこそ「お寺」が読み書きそろばんを教えてもいいのですからね。

現在公教育ではご法度の「宗教」を教えてもいいわけです。
実際ヨーロッパ人に日本の公教育では宗教を教えないというとびっくりするそうです。

「それじゃ、<道徳>をどうやって教えるんだ!?」

まあ、実際今でも日本社会ではヨーロッパより犯罪が起こる率は低いでしょうから、逆にびっくりしてもいいような話ですけれど。

でも、おじいちゃん、おばあちゃんばかりが行くのがお寺ではないはず。
こどもだって小さいころから仏教に触れられればいいことはたくさんあるかもしれない。
お寺にしても「葬式仏教」と悪口を言われなくて済む。

神社だって神主さんが日本古来の<清き明けき心>を教えてなんの不都合もない。
親御さんでも大歓迎かもしれない。

スポーツ大好き一家ならスポーツ中心の塾があってもいいでしょうね。

音楽一家なら音楽中心。
わざわざ放課後や土日に稽古にやる手間も費用も省けます。

そのほか色々特色ある塾がどんどんできるかもしれない。

高学年にはもっと簿記やPCを積極的に教えてもいい。
簿記とパソコンができればとりあえず事務仕事はできる。

あるいはもっと実務を教えてもいい。
会社を辞めた方や辞めざるを得なかった方もそれこそ江戸時代に浪人が寺子屋をやっていたみたいに教師として大活躍できるかもしれない。

子供にしても将来いつ役に立つかわからないことを延々と教えられるよりはるかにありがたいでしょう。

万一いじめにあったりその塾でなじめなくても替わりはいくらでもある。

安倍首相なみに「再チャレンジ」できる。

よくありませんか?

え?「自由化」か?ちょっと怖いね。
とやはり不安になりますかね。

しかしです。
本来「規制緩和」は業者の「自由」のためにあるのではない。
あくまで消費者の「自在」のためにある。

規制が緩和されれば選択肢が広がる。
実際この規制緩和で以前では夢のまた夢だった携帯電話を誰もが使えるようになった。
コンビニでちょっとした薬も買える。
わざわざ証券会社に行かなくても近くの銀行の窓口で投資信託だって買える。
規制が緩和されれば消費者は「自在」です。
それは決して業者を野放しにすることではない。

塾の費用はそれこそ教育クーポン制があればいい。

なんか突拍子もないこと言ってますかね?

次回もこのテーマで書きたいと思います。

じゃぁ、ミャ〜たねぇ。
posted by 山猫9郎 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。